更新履歴 20180515 作品移行

/箱を開けて
土砂降りの中、男の人が泣いていた。

傘もささずに道のど真ん中で座り込んでいるその人を通り過ぎていく人の波が道端に転がる小石かのように蹴飛ばしていく。
それでもその人は微動だにしない。声もあげない。
遠巻きにその人を見つめていた私は咄嗟に「やめて!」と叫んでいた。

雨に打たれ、人に蹴られ。

どうして誰も助けてあげないの!

もしかしたらどこか具合が悪いのかもしれない。
そう思った私はその人の側までかけ寄った。
濡れてない所を探す方が難しいくらいずぶ濡れだったが、せめて以上濡れないようにと自分の傘を傾けた。

「大丈夫ですか?」

そう声をかけてみたけど返事はない。
聞こえるのは雨音とその人の泣き声だけ。
視線を合わせるようにしゃがみ込むと、その人は泣きながら小さな塊を抱えていた。

「……?」

何だろう。
すっぽりと腕に納まる塊はどこもかしこも真っ黒だ。所々だが赤茶色も混じっている。
視界が悪い中、よくよく目を凝らしてようやく気づいた。私は息を飲んだ。

猫だ。

黒いと思ったのはソレは、体毛じゃなくて流れた血が凝固しているのだ。
全体を黒く染め上げる程の大量の出血。
そこから導き出される答えは一つしかない、猫が不幸な事故にあったということだ。
ぴくりとも動かない様子を見ると、すでに死んでしまっているかもしれない。
それでもその人は猫を抱え込んだまま離さない。
まだ、死んでなんかいない。丸い背中がそう語っているように思えた。

「………」

あまりにも痛ましい光景に掛けるべき言葉が見つからなかった。
その人は泣き続けるばかりで言葉らしい言葉を発しない。
だから私には抱える猫が飼い猫なのかそれとも野良猫なのかは皆目検討もつかなかったけれど、一つだけハッキリとわかっていることがあった。

その人が猫の死に深く悲しみ、心を痛めているということだ。

こんな雨の中にいたら風邪をひいてしまう。
それに猫だって自分を救おうとしてくれた優しい人が雨に曝され続けるのを望んでなんかいないはずだ。
どこか静かな場所に埋めてあげよう。せめて天国では安らかに過ごせるように祈ろう。
今私に出来ることと言えばそれぐらいだ。
私はその人の肩にそっと手を置くと、

「いつまでもここに居たら体に障りますよ。……その子を土に還してあげましょう?」

そう言ってその人の腕から猫を受け取ろうとしたが、私の手が猫に届く事はなかった。
泣いてばかりだったその人が私の腕を折らんばかりの剛力で握ってきたのだ。

「っい、痛い、痛い!」

堪らず悲鳴をあげた。
離してください、と懇願してもギリギリと腕を締め上げる力は一向に弱まる気配はない。
腕から伝わるこの痛みは、今まさにその人が感じている痛みなんじゃないだろうか。
抵抗しながら私はそんなことを考えていた。

その時、

「どこに返すって?」

低く、少し掠れたバリトンが雨音の中で響いた。

「あっ……」

濡れて張り付く前髪から覗く鋭い瞳に、私は標本に縫いとめられた蝶のように動きを止め言葉を詰まらせた。

「俺のところ以外に、どこに帰る場所があるんだよ」

目が離せない。体が動かない。
猛獣を彷彿とさせる瞳は恐ろしいのに、何もかも吸い込んでしまいそうな漆黒を綺麗だと思った。
何も言えないでいる私を睨みつけたまま、その人の言葉は続いた。

「俺を置いて死ぬはずねえだろ。約束しただろ、昨日。ずっと一緒にいるって」

約束?猫と?
一体何の話をしているんだろう……。
ようやくその人と私の話が噛み合っていないことに気づいた。

その人の視線が腕の中に落ちる。
つられた私は一緒に猫が眠っているだろうその人の腕に視線をやったのだが、

猫がいない。

一体どこへ、と驚いていると突然、感覚のなくなった腕をぐいと引かれて抱きしめられた。
カッと頬が熱くなる。
バランスを崩した私は突然の出来事に混乱と動揺で目を回した。

「あ、あのっ……」

ぐっと力を込めて胸を押し返してみてもびくともしない。
ぎゅう、と私を頭から抱え込んでいる腕の中から逃れようともがいていたがガッシリとした腕から動けそうにない。
頬に当たるその人の肌は何故か温かかった。ずっと雨の中にいて冷え切ってるはずなのに。
それに呼吸するたび胸いっぱいに広がる雨が混じったこの甘い匂い。
この匂い、どこかで嗅いだことがある。
ずっとずっと嗅いでいたい、懐かしくも落ち着く香り。
それに匂いだけじゃない。強く抱きしめるこの腕の感覚も、身に覚えがある。
すっぽりと隙間なく、嵌るべき場所に嵌ったような、パズルみたいに腕の中に治まっている。

そう、先程まで抱えられていた猫のように……。

猫……、そうだ、猫!
どこか懐かしいと感じる香りと温もりが一気に吹き飛んだ。

「あの!さっきまでここにいた猫はどうしたんですかっ?」

私の質問に、ようやく腕の力が緩む。
その隙を見て顔をあげると怪訝そうにしたその人と視線がぶつかった。
しばらくして、その人は「猫ってなんのことだ」と言うので私はまた混乱した。

どういうことだ。
さっきまで確かにここにいたはずなのに。
あの様子じゃ、歩けるはずがない。

「なんのことって……さっきまで抱えてたじゃないですか………覚えてないんですか?」

だって、あの猫はもう………。


「もしかしてお前の探してる猫って、あそこにいる猫のことか?」

「え…………?」

その人が指差す先にいたのは、猫、……じゃない。

人間だ。
猫と同じように全身血にまみれ地面に倒れている。
猫と同じようにぴくりとも動かない。

「い、いやあああああああ!」

私は悲鳴をあげた。
初めて死体を目の当たりにしたからじゃない。
うつ伏せの死体は顔だけこちらを向いていて、私にはその顔がはっきりと見えたのだ。

私だ。
私があそこにいる。
私が、そこで、死んでいる!

私じゃない。
私はここにいる。
私は、ここで、生きている!


全身を襲う恐怖にガクガクと震える私をその人は更に強く抱きしめた。


「お前、いつまでそこにいる気なんだ?俺のことなんてもうどうだっていいのか?いいよなお前は。全部忘れて。何もかも初めからやり直すんだろ。でもそこに俺はいない。愛してる女に置いていかれる男の気持ちがお前にわかるか?お前は酷い女だよな、いっつもそうだ。追いついて手を伸ばして。ようやく掴んだと思ったら逃げるんだ。あの時も。今だってそうだ。もうお前に置いていかれるなんてごめんだ。絶対に離したりなんかしない。お前のいない世界なんて俺には生きてる意味がねえんだよ」

だからお前を失う以上に俺に怖いものはない。

絶対に離さない。

絶対に許さない!




雨音が強くなる。
その人はまだ何を言っているようだったが私には理解出来なかった。



だって私は、










「おはよう、つくし」

頬を伝う濡れた感触に、目が覚めた。
はっ、はっ、と息が乱れる。米神がドクドクと激しく音を立てて脈打っていた。

またあの夢………。

聞こえてきた声に視線だけ向けると、男性が椅子に腰掛けてこちらを心配そうに見つめていた。
あの人とは違う、優しい瞳に私はホッとした。もう夢じゃない。
震える呼気に気づかれないように、ゆっくりと挨拶した。

「…………おはよう、ございます、司さん」

今出来る精一杯の笑みを浮かべてみたけど、きっと失敗したのだろう。
司さんは困ったように眉を下げると汗ばんだ私の手を取った。

「随分と魘されていたから心配したよ。……またあの夢を?」

私は少しだけ逡巡してから、ええ、まあ、と言葉を濁した。
司さんには夢のことを話している。
どんな夢なのか詳しくは伝えていない。
ただ、猫が死んでる夢、とだけ伝えていた。

「……ごめんなさい。少し、一人にしてもらえますか」

今は何を話しても頭に入ってこないし、夢をみた後は司さんの顔を見るのが少し辛い。
一人にしてほしい。
こう願い出るのもいつものことで、司さんもわかったと一言頷いた。

「落ち着いたら一階に降りてきて。一緒に朝ごはんを食べよう」

今日はつくしの好きなサンドウィッチを作ったんだ。
頬を人撫でして親指で残る涙をそっと拭ってくれた。

「………………」

ぱたんと静かに扉が閉まるとすぐにタンタンタン、と階段を降りる足音が聞こえ、段々と小さくなっていく。
物音が完全に聞こえなくなったところで、ようやく私はベッドから起き上がった。
閉め切られていたカーテンを開けると窓から差し込む光に目が眩んだ。

目が慣れてくると、美しい光景が眼下に広がっていたが私はそれらを暗鬱とした表情で見つめた。




ここに来てからというもの、ずっと同じ夢をみる。

死んだ「私」を抱えて「私」を責め続ける、あの人の夢を。



End